
春山 純一
Junichi Haruyama

福島県出身(福島県立福島高等学校卒業)。高校時代は野球に熱中しました(守備位置はセンター)。京都大学理学部卒業後、大学院生時代には宇宙科学研究所で研究を行い、京都大学から博士号(理学)を取得。アメリカ カリフォルニア工科大学でポスドクを経験した後、帰国して旧宇宙開発事業団で月探査計画(後のSELENE「かぐや」)の立ち上げに参加しました。宇宙三機関の統合に伴い、宇宙科学研究所(ISAS)に異動。
現在は、月惑星科学の研究およびさまざまな月惑星探査計画に携わる一方、総合研究大学院大学や東海大学などで教員として、大学院生や学部生の研究指導を行っています。
学術論文は多数執筆。これまでに、アメリカ地球物理学連合が発行する『Journal of Geophysical Research: Planets』誌において、アジア初のエディターを務めるなど、国際的に活動の場を広げています。最近では、月に発見された縦孔を入り口とする地下空洞の探査を目指すUZUME計画の実現に向け、数多くの理学・工学研究者、アウトリーチ関係者、そして民間企業と連携しています。
学 歴
昭和60年(1985年)
京都大学理学部 入学
京都大学理学部 卒業(理学士)
平成 元年(1989年)
京都大学大学院理学研究科修士課程
(地球物理学専攻)入学
平成 3年(1991年)
京都大学大学院 終了(理学修士号取得)
京都大学大学院理学研究科博士後期課程
(地球物理学専攻)進学
平成 6年(1994年)
京都大学大学院 退学(理学博士号取得)
学位 : 理学博士(京都大学/甲第5787号)
学位論文題目
"Thermal History of Comets during Residence in the Oort Cloud"
職 歴
平成 6年(1994年)
日本学術振興会 (特別研究員DC)
同上 (特別研究員PD)
平成 7年(1995年)
カリフォルニア工科大学 (客員研究員)
新技術事業団 特別研究員(宇宙開発事業団 在勤)
平成 8年(1995年)
平成 9年(1995年)
平成10年(1998年)
平成15年(2003年)
宇宙開発事業団(招聘研究員)
同上(開発部員)
同上(副主任開発部員)
宇宙航空研究開発機構 宇宙科学研究本部 助教 〜現在
会津大学 大学院コンピュータ理工学研究科
特任准教授(兼務)〜2010
平成19年(2007年)
熊本大学 理学部 客員准教授(兼務)~2017
ハワイ大学マノア校 客員研究員(兼務)
平成20年(2008年)
会津大学 大学院コンピュータ理工学研究科
特任上級准教授(兼務)〜現在
平成21年(2009年)
米国地球物理学連合(AGU)
機関誌 JGR-Planets Associate Editor 〜2011
平成26年(2014年)
早稲田大学 客員研究員(兼務)~2016
相模女子大学 講師(非常勤)~現在
平成28年(2016年)
東京理科大学 講師(非常勤)~2018
令和4年(2022年)
東海大学 工学部 航空宇宙学科 客員准教授(兼務)~現在
春山純一先生にインタビュー!
宇宙に興味をもたれた経緯をお教えください
宇宙に関する思い出の最初は、東京の団地住まいの時に近所のお兄さんに見せてもらった望遠鏡で見た土星でしょうか。小学校1年生の時か2年生の時の月食をスケッチしたこともきっかけといえるかもし れません。
そして、スーパージェッター、マジンガーZ、宇宙戦艦ヤマトなどをテレビに食らいついて見ていた、バリバリの科学・宇宙アニメ世代です。高校3年生のとき、いやがおうにも進路の決定に向き合わなければならなくなりました。その当時、立花隆さんの「宇宙からの帰還」に触発され、またガンダムの映画を劇場で見た際、圧倒的な大きさで迫ってきたスペースコロニーを見て、大学では宇宙を学んでみたいと思うようになりました。
幼いころはどのような環境ですごされたのでしょう?
私は東京生まれで、建築家の父と祖父を持ちます。小学校2年生までは東京の団地住まいでした。小学2年生の時に福島に移り、多くの伸びやかな友人たちと豊かな自然に囲まれ、育つことになりました。近くの信夫山での蝶採集にもハマったりもしました。近郊の吾妻山で、藤井旭氏が主催する観望会に出たこともあります。
青春時代の思い出をお聞かせください
高校は、県立福島高等学校。入学後、即、祖父もやっていた硬式野球部に所属しました。その数年前赴任された、別高校を甲子園に導かれた経験もある加藤仁一郎先生の特訓の元、野球に明け暮れました。学業からはどんどん遠ざかりましたが、一つのことに集中した高校時代は最高の思い出の一つです。1番・センター。あの頃は足も速かった(かな?)。 一つ上の学年には、今や全国レベルでも名を馳せる聖光学院率いる齋藤智也さんや、豪腕・剛球投手ながら、勉学の実力で慶應大学に進学しオリンピックに出場、銀メダルも獲得され、更にはその後、西武ライオンズでプロ野球選手となられた鈴木哲さんらがおられました。期待された上の学年でさえ甲子園は残念ながら果たせませんでした。実力で遙かに劣ると言われた我々は、先輩方に負けじと練習に励んだものの、高2秋・高3夏いずれも県大会ベスト4と後一歩に終わり、残念ながら甲子園の夢は果たせませんでした。高3で野球が終わって、嫌が上でも進路の決定に向き合わなければならなくなりました。
その際に宇宙を学ぶことをお決めになったのですね
しかし、3年間何も勉強してこなかった結果は明らかで、浪人することになりました。浪人時代、予備校講師に影響されたこともあり、大学では「きちんと物理を勉強してみたい」と考え、二浪の後、京大理学部へ進むことになりました。
学生の時はどのようなことを学ばれていたのですか?
学部では、地球電磁気学を専攻。杉浦正久先生・荒木徹先生・寺澤敏夫先生らにご指導いただくことになりました。その後、京大大学院に進学。寺澤先生のご紹介もあり、同期の齋藤義文君とも一緒に、京大に籍を置きつつ、神奈川県相模原市の宇宙研に場所を移し院生時代を過ごすことになりました。修士過程では、河島信樹先生のご指導の下、ボエジャー2号のオカルテーション観測実験に参加し、海王星の中性大気に関わる研究を行う機会に恵まれました。博士課程では山本哲生先生、水谷仁先生らにご指導いただき、彗星核の熱史にかかわる理論的研究を行いました。
卒業後から今までの研究についてお教え下さい
大学院の終わり頃から、Muses-C(後のハヤブサ)の立ち上げに参画し、特にカメラを検討をしました。しかし、博士号取得後、カリフォルニア工科大学で、地球の熱史に取り組むことになり、後を佐伯和人君(現大阪大学)に託し(?)、留学(その後、佐伯君もフランスに留学)しました。
とにかく刺激のある楽しいパサデナ生活でしたが、一年を経ずして帰国し、宇宙開発事業団(NASDA)ポスドクとして長島隆一氏を中心とする月探査計画立ち上げに参画することとなりました。この計画は、SELENE(後に愛称として「かぐや」)としてプロジェクト化されました。
SELENEは、当初打上予定の2002年が大幅に遅れるも、関係各位、特にNASDAや宇宙研の中心の方々の大変なご尽力により、2007年打上に至りました。
SELENE計画ではどのようなことをされていたのですか?
SELENE計画では、地形カメラ、マルチバンドイメージャ、スペクトルプロファイラの開発に携わりました。これらの機器は、最後の最後まで良好なデータ取得に成功しました。現在、自分が関係したSELENEの機器のデータ校正・補正、そして何より待ち望んだデータの科学解析を行っています。また、他の国も含めた将来探査にも数多く関わりながら今に至ります。
研究を行う際のモチベーションをお教えください
宇宙の過去はどうであり自分の存在は必然だったのか?今、宇宙にはどのような未知なることがあるのだろうか?地球、宇宙は将来どうなっていくのだろうか?そして、人間が、この広大なる宇宙にその活動の場を広げていくのに対して、自分はどのように貢献ができるのだろうか?私の研究動機はこれらのことです。知りたいこと、実現したいことがあれば、過去にとらわれることなく、挑戦していきたいと思っています。